コンゴ回想録

TBSテレビ日曜劇場『南極大陸』をご覧になったでしょうか? 1956年秋から1957年春に派遣された第1次南極観測隊は、敗戦国日本の復興を掛けた一大プロジェクトでした。

それからわずか4年後の1960年、日本は国連の援助要請に応えて、コンゴ共和国(現コンゴ民主共和国)に医療班を派遣しています。外務省のホームページに次のように記載されております。

コンゴー(レオポルドヴィル)共和国動乱による医療サーヴィスの窮状を打開するため、国連事務総長の要請でWHO(世界保健機関)を経て赤十字国際委員会が同国の援助に乗り出すことになり、昨年七月末、日赤に対しても医療班のコンゴー派遣方要請があった。日赤は経費につき政府の援助を得て、日赤中央病院内科宮本貴文医学博士、同外科荒木洋二博士および外事部員渡辺晃一(通訳)の三氏をコンゴーに派遣した。同医療班はコンゴー到着後赤十字国際委員会によりレオポルドヴィル州北東部イノンゴ地方に派遣され、八月から三カ月間にわたり同地方住民の治療に当った後、十二月始め無事任務を終了、帰国した。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1961/s36-contents.htm
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1961/s36-2-2-8.htm#8


派遣された宮本貴文医師の回想録を入手しました。当時のコンゴの事情などが詳細に書かれており、歴史的価値がある内容だと考えますので、ご子息の宮本幸夫 慈恵医大教授 のお許しを得て、ここに紹介します。なお、これは1979年~1980年の『水戸医師会報』に掲載されたものです。


掲載日:2012/1/27

*本文中に「土人」等、所謂差別用語が使用されていますが、一、著者がすでに他界しており、訂正の許可を得ることが不可能であること、二、本文中使用されている言葉は、初出当時において、必ずしも所謂差別用語として一般に認識されていなかったこと、三、文脈の流れからも、差別を意図して用いたとは考えられないことなどより、原文のまま掲載させて頂きました。



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だっこちゃんの故郷 ---コンゴ回想記---


「内科の宮本センセー、宮本センセー、近くの電話口にお掛り下さい。」

病棟の廻診を終えて廊下に出ると、スピーカーからの呼び出しである。事務長室に電話がつながれて、事務長が今から話しに来ると云ふ。1960年(昭和35年)8月3日、日赤中央病院(現、日赤医療センター)52号病棟の午後のひと時である。

事務長の話は、日赤本社から電話があって二、三日前ジュネーブの赤十字国際委員会から、今、動乱のコンゴヘ医療班を派遣することになって、日本赤十字社も之に応ずることになったのだが、中央病院から出してもらえないか?出来ればDr.宮本などは如何であろうか、と言って来だのだが、どんなものであろうか、と云ふのである。そういえば、一昨日の新聞に、赤十字国際委員会から日赤へ医療班派遣要請の記事が小さく出ていた。本社ではどうするのかな、と思っていたが、その話である。

インターンから13年間、余所へも行かず、ずっとお世話になった、言はば日赤育ちであった私はその間、台風水害の救護、ソ連(ナホトカ)、中共(上海)、樺太(ホルムスク)、北ベトナム(ハイフォン)等からの残留邦人引揚船救護班の引取り代表として、ハイハイと言って気軽に引受けて来たので、今回は本社から半ばご指名のようなことで言って来たのである。

女房にも相談なしに


これはこれはと云よ訳で、内科部長先生や医局長先生がOKとおつしやれば良いですよ、と即座に引受けてしまった。

この、女房にも相談しないで……

といふのが、我が家では未だに尾を引いているせりふなのであるが、戦中派の生き残りとしては、軍国の妻は、一銭五厘で(実は、あの赤い召集令状には、切手は貼ってなかった)亭主を戦場に連れて行かれたのだ……
と言ひ返したいところなのである。

もう一人のドクター、外科のA先生、そして通訳兼看護夫兼書記として、本社外事部のW君が決ったのは、8月5日のことであった。8日朝には出発だと言ふ。種痘、予防注射、特に黄熟の予防注射をしなければならない。慌だしい準備である。

写真1:元祖「だっこちゃん」

コンゴ動乱

1960年6月30日、アフリカ植民地の第一次独立ブームに乗って、旧ベルギー領コンゴは華々しく独立の宣言をしたのではあるが、大統領のカサブブと首相のルムンバとの意見が違ふ、豊富な鉱物資源を有するカタンガ州やカサイ州は、分離独立すると言ひ出す、各地に部族間の争いが起る、軍隊の不平も昂まる。端的に言って、統治能力が無いのに、ベルギー人を追払って独立したと言っているだけであった。

一ヶ月後には治安維持のため、旧宗主国ベルギーや、国連に軍隊の派遣を要請しなければならない程の混乱になってしまった。植民地が独立するとき、しばしば主権を握ろうとする部族同士の間に、又、元の宗主国を急激に排するの余り、流血の惨事が起る。

コンゴに於ても亦同様で、ベルギー人排斥は、白人無差別排斥となって、多くの白人が虐殺され、ベルギー人は国外に難を逃れ、無医国になってしまったのである。植民地時代、ベルギーは現地人の医師を養成しようとしなかったためである。

国連安保理事会は国連軍の派遣を決め、同じ国連のWHOでも、ジュネーブの赤十字国際委員会を通じて、各国の赤十字社に対して医療班の派遣を求めたのである。


サハラ沙漠を越えて

この要請に応じて、集合地イタリヤのピサに集った医療班は、ギリシャ(医師3名、看護婦5名)、チェコスロバキア(医師1名、看護夫1名、検査技士1名)、スイス(医師4名)、イタリヤ(調査員1名)の各チーム。勿論、東洋からは、吾が日赤チームのみであった。

国連所属のカナダ軍用輸送機は、四発のプロペラ機で、防音装置もトイレもなく、耳に綿栓をつめ、布製のベンチに腰掛けさせられて、ピサからコンゴの首都レオポルドビルまで、サハラ沙漠を縦断して文字通り輸送されたと云ふ感じであった。途中、深夜に立ち寄った無風のトリポリ飛行場(リビア)は焼けついたフライパンの底であり、カーノ(ナイジェリア)で初めて見た炭のように黒い土人たちの、手の掌だけが妙に淡紅いのが印象的であった。


レオポルドビル

当時のコンゴ共和国の首都である。1966年昔の名前キンシャサに改められた。国名もしばらくの間、旧フランス領コンゴ共和国と共に、同名の「コンゴ共和国」を名乗って互に譲らなかったが、近頃旧ベルギー領の方が下りて、「ザイール」と改めた。

元々コンゴはアメリカの探検家スタンリー(Henry Morton Stanly) が、ベルギー王室の経済的援助で、1880年代にこの地方を探検し、ベルギー王室の私有地のようになっていたのを、ベルギー政府が植民地とし、その首都として1926年スタンリーが建設し、「レオポルド」の名を冠したのである。

コンゴ河の河口から460 ㎞上流の左岸に、旧仏領コンゴ共和国の首都ブラザビルと河を挟んで相対している。ジャッグルの中に広大な舗装道路が河に並行して数十キロ走り、螢光灯の街灯と見馴れない高い熱帯樹が街路樹となって、見渡す限り続いている。その両側には、ところどころ、15階20階建の高層建築が建てられ、目抜きの通りにはデパートやホテルもあり、まことにアフリカらしからぬ近代都市である。

然し、大通りを一歩外れると、裏通りには原住民の家が並び、黒人の市が立ち、地上はジャングルに蔽われ、河にはワニが棲む。

当時、表通りの商社の店や事務所では、殆んど店を閉じ、ベルギー人の店以外は、自国の国旗と青地に黄色の星をあしらった当時のこの国の国旗とを軒に並べて吊し、つまり、此の店の所有者はベルギー人でないことを明らかにして、一時難を逃れていた。

吾々がレオに着いた8月12日も、ルムンバ首相の軍隊が、カサブブ大統領の与党新聞社の編集部を襲ふなどのことがあり、又、街の警備に当っていた国連軍も、二、三日は白人兵であったが、ルムンバが白人国連部隊の国外撤退を叫んで、全部黒人兵に変ってしまった。

レオポルドビルには8月19日まで、アストリアホテルに滞在した。この一週間何をしていたかと云ふと、吾々を配属すべき場所が、コンゴ政府、WHO、赤十字関係の間で決定しなかったので、それを待っていたのである。各地方の治安状況が明らかでないし、政府側の希望は、昨日と今日とではまるで異なる。各医療班の編成や人数によっても、配属する病院の大きさを考えなければならない。その間にも、色々な情報が真偽入り乱れて耳に入って来ると、なるべく安全な場所をと考えるのも人情の常であろうか。特にヨーロッパの白人チームは、レオの様な都会の大病院勤務を望んで、地方には出たがらない様子であった。

イノンゴヘ

結局8月18日、われわれはギリシャ班が断わったイノンゴという町へ行くことに決まった。地図で見ると、レオの北東約400㎞、南緯は約2度、「レオポルド二世の湖」の東岸に臨む小さな町で、国際委員会の方でも、国連軍が駐在していることと、今までに余り事件が起ったことがないこと位しか情報がない所であった。

写真2:わがイノンゴ病院


こんなときには、何処へでも行きますよ、と言った方が、結果として「良い籤」を引き当てることが多いもので、そもそも赤十字のマークをつけて救護にやって来て、苦労でござい、危険でございと言っている方がおかしいのであって、それなら初めから出てこない方がいい位のものである。果して、これは後から聞いた話であるが、ギリシャ班の連中は、東部の物騒な地方へ行くことになり、人肉を喰っているところを見たと云ふ。それに反して、
わが日赤チームが配属されたイノンゴは、多少食糧は乏しかったが、これから述べる様に、全く平和な仕事も楽な良い田舎町であった。

翌19日朝、同じ方向のバ二ングビルといふ町に決まったチェコチームの一行と、双発の国連機に同乗してレオの空港を発った。赤十字国際委員会のD氏、レオポルドビル州の厚生大臣も同行である。

空から見るコンゴは、耕作された畑もなければ植林された山もなく、ただ一面のジャングルの海その間をコンゴ河が茶色の帯をなして、水量豊かに悠然と蛇行し、人間は辛うじてジャングルの切れ間に細々と部落を作って、やっと生を営んでいる様に見える。

飛行機は先に赤道直下の街、コキラトビルまで飛び、積荷を下ろして引返すようにしてイノンゴに着いたのは午前11時であった。空港の名も恥しい草原飛行場である。厚生大臣閣下が同行しているので、コンゴ兵や国連軍が整列してお出迎えで、少々くすぐったい気持。

握手攻めに会いながら、人垣を分けて車に乗り込み、県知事邸で昼の会食である。官邸は湖に面して眺めも良く、棕櫚の林に囲まれ、熱帯植物が美しく庭に咲き、仲々立派な建物で門には物々しく銃を待った番兵が立っている。

食後病院を見せてもらって、その不潔さに驚いたのであるが、後になってみると、そのときに見せられたのは病院で一番きれいな所だったのである。飛行場に向ふ人々と別れ、われわれは宿舎に案内された。石造り、赤ペンキ塗りのトタン屋根で、前は棕櫚の並木路をへだてて湖に面し、浜辺の砂は雪のようにまぶしく、大変良い場所に在る。湖畔に沿って同様の家が並んでいた。元のベルギー人たちの住宅地であった。

熱烈歓迎

宿舎に荷物を置くと、村人たちに紹介するからと言って車で連れて行かれたのは、村の広場である。既に数百人の「黒山」の土人たちが集り、コンゴ兵も銃を持って警備についている中を、小高い雛壇に立たせると、近くに槍だの煮えたぎった大釜などが用意されているような気がしてくる。

司会者の前置きがあって、三人が一人づつ紹介されると、万雷の拍手である。ヘルメット帽を大きく振ってこれに応えると、挨拶でもしなければならない様な具合になったので、代表して一言云々と述べる。この国の公用語はフランス語であるから、通訳のW君が仏語に訳すと、三割位の連中が判るらしい。更にそれを司会者がその地方の言葉であるリンガラ語に訳すと、やっと女、子供もわっと声を挙げるといふ順序であるから、何か伝ったか怪しいものである。

診療のときもこの順で色々質問し、逆の順序で返って来るのであるから、もどかしいことおびただしい。しかし、村人のわれわれに対する印象は決して悪いものではなさそうなことは感じ取ることが出来た。

それからあとが大変である。県知事さんと郡長さんとが、長々と演説をぶち始めた。実に熱がこもりジェスチュアに富んだ大熱弁である。リンガラ語は判らないが、赤十字医療班を賞め称えるにしては、少々過分のように思われたが、後で聞いてみると矢張り政治演説で、われわれをだしにして、村民に政治発表をやったものらしい。当時は政治的集会はなかなかやかましく。すべて国連軍の許可を必要とした様子で、演説の途中、国連兵がジープでやって来て、司会者に何事かささやいて行ったのは、無届集会を注意しに来たものらしかった。そして漸くわれわれは解放された。

この日から二、三日間、宿舎の食生活の用意が出来るまでの間、2 ㎞程離れた教会へ食事の世話になりに行った。カソリックの教会で、ベルギー人の牧師が二人、逆境の中に留まっていたのはさすがであった。そこで此の土地について、色々の話を聞くことが出来た。

教育と医療

この国は前述の通り、ベルギーの植民地であったので、一般の教育はもちろんのこと、科学教育も殆んど行われていない。イノンゴでも、小学校----と言っても、教会の牧師さんが塾のようにして、読み書きを教えているのであるが----に通っているのは、ごく一部の特定の俸給生活者、すなわち、県庁、郡庁、病院、刑務所などに勤めている人々の子弟のみで、それも殆んど男の子に限られ、その他の者は教育に関しては、云はば野放しである。従ってこの国の公用語であるフランス語を解する者は、男では約半数、女はイノンゴでは皆無であった。

国内の所々には国立病院があり、レオなどの大都会には設備の点では日本にも劣らない様な病院もある。その他、教会関係の診療所が相当奥地まで散在し、レオなどには開業医も居る。しかし、これらの医療は、すべて白人のドクターによって行われ、当時はコンゴ人の医師といふものが存在しなかったのである。

しからば、われわれが派遣されたとき、ベルギー人排斥によって国外に彼等が去ったあと、コンゴには病人と黒人の看護婦のみが病院に残されたかといふと、必ずしもそうではなく、メディカル・アシスタント(医療助手)と称する人々が少数ながら各病院に残っていたのである。彼等は「医師」としての名称を持たず、開業こそ許されていないが、中学校卒業後四年間の専門教育を受け、一年間の実習後、病院に配置され、ベルギー人医師の監督の下に、黒人に対しては事実上「医師」として診療を行い、治療にも従事していたのである。わがイノンゴ病院にもZ君という立派なアシスタントと、S君という頭の良い実習生とが居て、われわれの診療を援助してくれた。

イノンゴ病院

イノンゴは元来「ノンゴ」といふ地名で、地方語で「湖の中心」といよ意味で、植民地になってからイノンゴと呼ばれる様になった由。若しかすると、今は又、ノンゴという元の名に返っているかも知れない。コンゴ西部湿原地帯の中ほどにある「レオポルド二世の湖」の中央東岸に面した、人口四千足らずの田舎町。行政的には、レオポルドビル州レオポルドニ世湖県の県庁所在地であるが、農鉱業も発達せず、わずかに原始的な方法で漁業が営まれているに過ぎない。県庁、郡庁のほか刑務所、町役場などがあり、当時国連軍に属するガーナ軍隊が駐屯していた。

わがイノンゴ病院も、大げさに言えば官庁街の一角にある。別に看板をかかげた門が建っているわけでもなく、比較的大きな道を行くと、自然に病院の構内に入って行く。事務棟、手術室、薬室、外来診療室、元白人専用診療室、産室、倉庫など平屋の独立家屋のほかに、数棟の病室があり約130ベッドを収容している。何れを見ても、大した古さと不潔さで、白人専用であった診療室だけが床を張ってあって、やや病院らしい形態であるが、他はすべて土間又はコンクリートそのままである。患者は裸足であるから、ベッドを下りればすなわち道路である。

写真3:病棟の裏は各病人家族の炊事場である


不完全看護、不完全給食であるから、付添人は病棟の裏で各自、石を集めてかまどを作り、薪をくべて自炊する。食餌療法など出来るものではない。ベッドの上にアンペラを敷き、汚い毛布にくるまり、少数の者は寝台の四つの足に本の枝を縛りつけ、夜は穴だらけの蚊帳を回らしている。各病棟ごとに、重症患者用に二つの個室があるが窓は高く小さく、その体臭と不潔さのために、異様な臭気が鼻をつき、嘔吐を催す。

レントゲン装置は米軍野戦用のポータブルが一台あった。町の電灯は、夕方6時から11時までに限って送電するので、病院は自家発電して電気を起し、然る後レントゲンを撮影するのであるが、ガソリン、フィルム、現像薬品の不足などで思う様にならなかった。その他、顕微鏡が一台あるのみで、検査設備も無く、検査データーが出ないと診断も治療も出来ないとおっしやる先生方には、到底つとまらない話で、今回医療班の派遣された中では、最も設備の悪い病院ではなかったかと思われる。しかし、治安の良さと住民の温順さとでは、誠に恵まれた土地であった。

メディカル・アシスタントの他に、約二十名の看護夫と二名の看護婦が医療に従事し、その他、雑役夫、運転手などが働いている。この二名の看護婦は、当時コンゴで見た唯一のBG(注1)で、この他にいわゆる、女性の職場というものを見なかった。

病院の構内には、新病棟を建築中で、八分通り出来上っていたが、動乱騒ぎのために途中で中止され、足場は組まれたまま、バケツの中にはセメントが硬く鏝を固めたまま放置されていた。

病気と病人

熱帯地方であるから、マラリヤが最も多く、乳幼児が死亡するのも主にこの病気が原因である。神経痛が案外に多いのも、慢性のマラリヤに起因するものではないかと思はれた。寄生虫も多く、蛔虫、十二指腸虫そしてフィラリヤ症であるが、フィラリヤ症は日本のものと種類の異るロアロア・フィラリオージスというものである。

癩も多いが、イノンゴでは幸いに隔離がよく行われていて、7㎞程離れた所にまとめてあるが、それでも数名の患者を外来で診た。アシスタントたちは、真黒な皮膚の中の斑紋をよく見分けることが出来る。東部の山岳地方には、患者がうろうろしていて、外人旅行者と見ると、近寄って来て、金をねだる所もあるらしい。

淋病が甚だ多く、治療に困難をした。もちろん夫婦同時に治療するのであるが、性交の相手は必ずしも夫婦のみとは限らないからである。インポテンツを訴えて来る老人も割合に多いのであるが、話を聞いてみると、どうして仲々にお達者なことで、以前にはどんなであったか、想像に余りある。

乳幼児死亡率が高いためか、自然に多産を好み、不妊を訴えて来る女で、1人も子供が出来ないという者は稀れで、三人目が出来ないとか、四人目が欲しいとかいうのが大多数であった。

日本で問題になっている癌は、三ヶ月間の診療中わずか三名で、一人は乳癌で既に自潰していたが、不思議なことになかなか悪化しなかった。もう一人は子宮癌手術後の再発であった。高齢者が少いので癌患者を診る機会が少い、とばかりは言えない、何か人種的な体質を考えさせられる様に思はれる。同様に虫垂炎も少い病気であった。

化膿創、ソケイヘルニア、陰嚢水腫は最も多い外科的疾患であり、ワニによる咬傷などは、われわれには珍らしく、創は深くて化膿し易く、難治であった。外科のA先生は、ヘルニアや陰嚢水腫などの小手術を、アシスタントによく教え、彼等も喜んで学び取っていた。この種の外科的手技に関しては、以前に居たベルギー人医師たちとはかなり差があったらしく、彼等は、日本人ドクターの手術は、痛くなく、創口が小さく、実に速やかである、と驚嘆していた。化学療法剤、抗生物質の効きも良かった。

前述の通り、住民たちはほとんど無教育で、衛生思想などというものは少しも持ち合せていないので、安静とか清潔とか、医療の基礎となる概念が全く欠けているので、われわれの行為もいわば「衛生学を欠如した治療」とならざるを得ない状態であった。水と原始林のはざまランバレーネの地で、密林の聖者と敬まはれていた、アルバート・シュワイツァー博士が、決してヨーロッパ式の近代設備の病院を建てようとせず、それなりの病院で黒人たちに医術を施しておられた理由の一端が、膚で感ぜられるような気がした。

アシスタントたちの投薬を見ると、原因療法と共に、対症療法を決して忘れない。無知な土人たちにとってみれば、概念的な「病気」といふものが存在するのではなく、現に経験しているところの苦痛が即「病気」なのであって、その苦痛を取り除くことが医療であると考えるからである。

彼等にとっては、われわれのもっている医学のみが医療でなく、祈 、呪いなどはむしろ医術の先輩で、現在も或る程度行はれている様子であったが、詳らかに見聞する機会に恵まれなかった。

早熟短命で10歳前後に初潮を見、15歳ともなれば立派な母親となり、多産を望み、実際子沢山なのであるが、乳幼児死亡率も高く、50歳以上と思はれる年寄りはあまり見かけなかった。年齢を尋ねても、自分の年のみならず、産んだ子の年も答えられないで、時には、庭にある棕櫚を植えた年に生れたなどといふ面白い答が返ってくる。

彼らはまた、局所療法を好み、頭痛が激しければ額を、胸が痛ければ痛い方の胸壁に刃物で傷をつけて、薬草の汁らしきものをすり込む習慣がある。従って、塗り薬、湿布薬の類を欲しがる。

外科手術などに対する信頼度は案外高く、すすめると割合に抵抗なく承諾するのであるが、一つだけ例外がある。それは妊娠初期に起った流産の際に行う子宮内膜掻爬術であって、胎児が子宮口から出かかっていることを説明してもなお、妊娠の継続を望んで掻爬することを嫌うので、説得するのに苦労する。

事実、妊娠二、三ヶ月で流産する者が非常に多く、彼らの旺盛な性生活を推定させる。一応表面上は一夫一婦制といふことになっているが、実際は多夫多妻の傾向が多いようで、子供は必ずしも亭主の子でなくとも良いようで、その証拠には、白人との混血児を、亭主が大事そうに抱いて受診に来る姿をたびたび見かけた。

開放性の脊椎破裂(Spina bifida)の乳児を毎日連れて受診に来る両親が居た。勿論、到底治りそうもなく、やがては細菌感染を起して来て悪い予後をたどりそうであった。私は介助についているJ看護夫に、予後の悪いことを両親に言っておいた方が良いのではないか、と言ったのである。そのとき、J看護夫君は日本のドクターに向って控え目に申した。「私たちもそれは知っています。然し、不幸な結果を、今のうちから早く告げて、家族を悲しませることはない」と。一瞬胸を衝かれた思ひであった。

確実な診断を下すことは、名医の条件の半ばである。われわれはその道を医学生時代から、まっしぐらに進んで来た。だが現代の医学ではどうすることも出来ない病気を診断してしまった、その先はどうするのか?教科書や講義は黙して語らない。

先輩は言う「本人には告げずとも、家人にだけは言っておけ」と。後で問題にならぬために?どんな問題に?ヤブ医の謗りを受けざらんがために?多少診断の明を誇らんがために?家族の覚悟のために、そして本人の覚悟のために、遺言の都合のために、又、後日起らないとも限らぬ医事訴訟の対応策のために、と。

今や癌患者に病名を告ぐべきや否や、の論議は多い。だが、その論議はその民族の文化的、社会的風土を離れてあるものではない。

J看護夫の返事は、今も忘れられないアフリカの言葉であった。

言葉

前にも述べた通り、この国の公用語はフランス語で、われわれにも仏語の出来るW君が日赤本社外事部から同行したのであるが、この地方で仏語を解するのはごく一部で、大多数はリンガラ語というこの国の通用語を話し、新聞も発行されている。しかし、リンガラ語も知らず、自分たちの部族の言葉しか話せない者も時々やって来て、その様な患者が来ると、アシスタントにも理解できず、更に通訳を必要とするので、三重通訳となって誠に面倒である。

非常に面白いことには、リンガラ語には、「ありがとう」という言葉がなくて、仏語の「メルシィ」を以て代用していることである。アシスタントに尋ねてみても、メルシィに相当するリンガラ語は存在しないという。われわれが手当をし、薬を与えても礼も言わずに立ち去る土人たちを見て、最初は対日感情でも悪いのかと、多少心配した。しかし考えてみると、天は豊かな太陽を恵みジャングルは耕やすことなく食物を与えてくれ、他人の力を何一つ借りることなく一生を過すことが出来る彼らの間で、他人に感謝の意を表わす言葉が発生してこないのは、或は当然かも知れない。考えようによっては、彼らの世界こそ天国であるのかも知れない。まして、国連がどうの、東西陣営諸国が援助しましょうの、と大騒ぎしていることなどは、大部分の住民にとっては無縁のことなのである。コンゴの人々のために援助をしているのではなく、自国の利権のために、援助を看板にして、文明諸国が周囲で相争っている有様は彼らのあの大自然の中の営みに較べて、誠に奇異の感を催すものであった。

このリンガラ語は、日本語やイタリヤ語のように、ローマ字を当てはめると、一語一語の語尾が母音で終るので、われわれには比較的発音し易く、文法も極めて簡単のようである。診察していても二重通訳は極めて不便なので、私も片言のリンガラ語を覚えて、「どこが痛むか?」などと聞いたら、ばっちりと通じてしまって、ベラベラとリンガラ語が返って来たときは閉口してしまった。それでも、「下痢はするか?」とか、「食後に二錠づつ飲め」とか「明日病院に来い」など、手振りを交えて話が少しは出来るようになった。

また面白いことには、「昨日」と「明日」とは同じ言葉で表現され、「一昨日」と「明後日」もまた同一の言葉で、前後の文意で判別する様になっている。また、「さよなら」には二通りの言葉があって、立ち去る者がいう言葉と、留る者が去る者に向っていう「さよなら」とは違った言葉で使いわけることになっている。

食物


われわれの主食は初めのうちは、粗末なパン、そのうち食糧が乏しくなって、土人の主食としているマニオックの根、九月下旬週一回飛行機の定期便が来るようになってからは、レオの赤十字連盟が送ってくれたベーター米を食べていた。

マニオックは、レオの附近では栽培もされているらしいが、この地方ではジャングルに野生し、根を掘ると、ごぼうのようないもが出て来る。その皮を剥いでゆでて食べると、甘味のない幾分あくのあるさつまいもに似た味がする。ころもをつけて、油で揚げて温かいうちに食べると少しおいしい。石のおろしで磨って餅のようにしても食べる。

副食は主に、ニワトリ、アヒル、魚などであった。湖岸なので、時々巨大な鯰に似た魚を売りに来る。大味であるが案外美味であった。黒鯛そっくりの魚が一番うまかったが、これは一度しか食べる機会がなかった。ワニはうまいという前評判であったが、繊維が長くて堅く、干鱈のような味であまり感心しなかった。また、カバは泥と血の臭みが強い上に甚だ固く、その舌の肉も、とても牛の舌のようなわけにはゆかなかった。

果物は何といっても新鮮でおいしく、かつ、安い。バナナなどは200円も出せば、100本近くついている木が1本買える。それを室内に吊しておいて、熟れたものからもいで食べるのが、乏しい食生活の中で、唯一の楽しみであった。その他、パイナップル、パパイヤ、マンゴーなど、何れも文明諸国では味わえないものであった。

一日のあけくれ

イノンゴの朝は聞き馴れない美しい鳥の声で始まる。土人も早起きで、六時半には通勤の二人のボーイもやって来る。彼らは曲りなりにもフランス語が出来、半袖開襟のシャツに長ズボンをはき、以前ベルギー人の医師が住んでいた当時からの、家付きのボーイである。一と通り料理も出来、洗濯、ワイシャツのプレスなども結構出来る。もう一人、彼等の下で働く男がいたが、彼は薪拾いと水汲みが専門で、家の中の仕事はしない。

国連駐留部隊で吹き鳴らすラッパを合図に、われわれもベッドを離れる。下働きの男も薪を割って、井戸からバケツで水を汲み上げ、梯子を登って屋根の上のドラム缶のタンクに水を入れ始める。なかなか大変な仕事であるが、丁度、彼がその仕事をしているときに、蛇口を開くと、タンクに溜っている水垢やごみが、濁り水となって出て来るから、その前に洗面を終らなければならない。もちろん、飲料用には、濾水器を通して沸かして使ったのであるが、蓋もないドラム缶の汚いタックの水で口を漱いで、よくも大した事もなく三ヶ月を送ったものだと思う。ただ一度だけ、三人揃って原因不明の下痢をしたことがあったが一日で治った。朝食はパンと、粉のネスコーヒーである。バターは無かった。七時には病院の車が迎えに来る。と書くと甚だ聞えは良いが、その自動車たるや、いうなれば、おんぼろの中型トラックである。運転台には、運転手共、三人しか乗れないので、一人は荷台に乗るのであるが、余程よくつかまっていないと、躍り上ってしまう。

病院には既に大勢の患者が、治療棟の入口を塞いで待っている。彼らは行列を作ることを知らないから、人口に向って蟻が群がるように押しかける。

押し寄せる患者のうち、簡単な病気や創は、看護夫が処理し、切開を要するものとか、やや複雑な病気、婦人科的のものがわれわれの診療室に廻され、アシスタントのS君が主に診察し、その相談にわれわれが応ずるという仕組みになっている。しかし、時々、日本のドクターに診てもらいたくて、直接われわれの診療室に来て看護夫に追い返されたり、アシスタントでなくドクターに診て貰いたくて来た、などといって、S君に臍を曲げられたりしている患者もあった。また、同じ薬を処方しても、われわれの診療室で手渡すものでないと効かない、と言い張る者もいる。

患者の中で感じの悪いのは、何処にもいるもので、兵隊である。威張り返って、他の者より先に診てもらいたがり、そのくせ、臆病で痛みに弱い。教育、訓練も出来ていないので、無闇に人に鉄砲を向けたがる。

刑務所があるので、そこの囚人たちも時々受診に来る。紺のパンツに、黄色と空色の太い横縞の半袖シャツを着ている。おもに都会で罪を犯し、ここで服役している連中で、患者の中では最も礼儀正しく、また通訳氏の言では、一番正しい仏語を話すのは、彼ら囚人だそうである。

彼らは病院の構内やわれわれの庭の草刈をしたり、並木になっている棕櫚に登って下葉を切り落したりする使役に使われているが、十数人の囚人が手に青龍刀のような草刈り刀を持って作業しているのに、監督は赤いトルコ帽を被った看守が一人か二人付いているだけで、のんびりしたものである。

彼らが怪我や病気で、靴をはく場合には、「靴を履く必要がある」という証明書にサインしなければならない。土人たちの足の裏は、ジャングルよりも硬く、軍隊の行軍でも、長くなると、必ず靴を脱いで裸足で歩くそうである。

11時半で午前中の診療を終り、家に帰って昼食を摂る。フランス流に昼食が生餐で、スープのほか副食が出る。魚、鶏などが主で、香料を使った油煮のような料理になって出て来る。味付けもなかなか上手である。特別に豚を買ったり、国連軍から貰った肉があるときには、大御馳走であるが、鶏や魚が無くなった頃は、レオから送ってくれた缶詰ばかりで苦労したこともあった。

午後2時までは昼寝の時間で、病院も役場もみな休み。路上の人通りも絶え、灼熱の太陽が大地も焼けよと、真上から照りつけ、高い棕櫚の幹もその影を失い、風もぴったりと止って、真昼の静寂である。われわれも静かにベッドに寝ていないと、いたずらに体力を消耗するばかりである。熱帯で真昼の直射日光を受けて体を動かすことは禁忌である。運動をしなくとも、太陽に直接照らされるだけで疲労感が来る。

午後2時から4時までは、外来患者も少いのでおもに手術の時間に当てた。われわれの手がけた手術は事故もなく、化膿することもなくて、皆、結果が良かった事は誠に幸いであった。

夜の生活

まばゆい太陽が棕櫚の梢をかすめて、対岸の森に近づき、空に五色の雲を残して水に映える頃、われわれは宿舎のバルコニーに椅子を出し、我を忘れてアフリカの美しい夕景色にしばし魅せられる。赤道に近い所では陽が落ちると、急に暗くなる。日本の夕暮れのように、薄暮というものがなく、俄かに星が光り出す。

裏手のジャングルの中から、遠くモーターの廻る音が聞こえて来て電灯がともると、スープが出てきて夕食である。金曜日の夕食後には、忘れずマラリヤの予防薬レゾヒンを飲む。

毎食後の果物にはこと欠かず、バナナ、パイナップル、パパイヤみな新鮮である。これはまた、われわれの夜食でもある。雨季に入る九月下旬頃マンゴーの実が熟する。庭にマンゴーの大木があって、物置のトタン屋根に大きな音をたてて落ちる。初めてこの襲撃を喰ったとき、W君は銃声?といってとび上って驚いたほどである。樟脳に似た、いささかお高くとまった気位の高い香りを待ち、小さなこぶし位の大きさで、種子も大きく、果実も繊維が多い。

ボーイたちか帰るときに、金盥に沸かして行ったお湯で行水を使い終る頃、NHKの中近東向け日本語放送が短波で送られて来る。日本から持って行ったソニーのポータブルラジオに、アンテナを長く張って、懸命に波長を合せてイヤホーンで聞き取る。雑音が多くて全く判らないときもあるが、調子によっては一言一句聴える日もある。ローマオリンピックでの日本の敗北、三原大洋ホエールズの優勝、浅沼事件など、みな、幽かな声を雑音の中から聴き取ったニュースであった。放送の終りに必ず送られる「君が代」の曲も、海外に在っては、ひとしほの感である。

全く同じ時刻に、旧仏領コンゴ共和国の首都ブラザビルからのニュース放送が聞える。コンゴ放送は、ルムンバの手に収められ、一方的な報道しか行われない当時であったので、むしろ隣国からの放送の方が信頼を置くことが出来た。もちろんフランス語であるから、これはW君がもう一台のラジオで聴取する。

当時の状況は、ルムンバ首相が一方的に権力を握り、援助に来てくれている国連に対しても、随分と勝手気ままなことを言い、コンゴをめぐる東西陣営諸国も、国連を援助しているのか、足を引っ張っているのか分らないような事をして、将来どうなることやら全く渾沌たる有様であった。W君はこれらの情報がよくわかるので、ノイローゼはますますつのり、彼を何とかなだめ、かつはげますことが、われわれドクターの仕事の一つであった。

そのうちに、軍司令官モブツ大佐のクーデターが起り、ルムンバはレオの官邸に軟禁され、良かれ悪しかれ、カサブブ大統領の線で政局が安定して来たのである。軟禁されたルムンバがベランダに出て、「モブツ、お前と決闘しよう!そうすれば、どちらが強いか分るだろう」と叫んだ、という新聞記事があったが、これは決して虚報や作り話ではなく、実際にありそうな事だろうと思われた。

ニュースの後は、いま聞いたばかりの乏しい情報と、豊富な想像力とを織りまぜて、大きなバナナを食べながら、勝手な議論が広汎に展開される。

それもいつか尽きると、私とA先生とのアフリカ本因坊戦が行われる。退屈のあまり、空箱の裏に線を引いた紙を貼り付けて碁盤とし、白の石は硫酸キニーネの錠剤、黒石の代りには、ミネビタールの赤い錠剤を代用し、時には送電の止まる11時を過ぎても打ち終らず、ランプをつけ、懐中電灯を片手に勝負を続けることもあった。

写真4:アフリカ本因坊戦


碁を打っている間にも、時々大きなムカデが床を滑るように這って来る。見つけ次第、殺虫剤を噴霧して悶死させる。ヤモリは窓ガラスの外に身を潜め、電灯の光を慕って集まる虫を、目にも止まらぬ速さで吸い込む。

レオの街には、大きなトカゲがたくさんいたがイノンゴでは殆んど見かけなかった。アフリカ睡眠病を媒介する「ツェツェ蝿」は時々いて、或る夜中、アシスタントが重症患者のことで指示を受けに来たので、テラスで話をしていると、頸すじを突然刺され、驚いて叩き落してみるとツェツェ蝿で、大いに心配したが、病原体を持っているものは、この地方では少く、患者も極めて稀れで、アシスタントたちもめったに見る機会はない、とのことであった。

九月下旬になって、やっと週一回土曜日の午後に、レオからベルギー航空の飛行機が定期的に通うようになり、日本からの手紙や新聞が十日から二週間かかって着くようになった。内地からの手紙は格別で、各人その量を自慢し、或は質を持って対抗する。二週間前の出来事を報ずる新聞は、気の抜けたビールのような気はしても、暇にまかせて広告欄まで読みあさる。手紙の返事を書くのもまた楽しみであるが、半月先にならないと届かないのは何としてももどかしい。

おんな

イノンゴの女たちは逞しい。体は筋肉質できりりと締ったのが多く、お尻は後ろへ、お腹は前へ、というのが彼女らの体格である。順に物をのせて運んだり、エコロという籠に、薪や主食となるマニオックの根を入れて背負うのは、すべて女房の役目で、亭主は決して力仕事はしない。腰の関節がよく曲り、ダンスなどすると大きなお尻が小山の揺れるが如く、くねくねと滑らかに動くのは見事である。彼女ら自身の土地の踊りにしても上体をやや前に倒し、お尻を一層後ろにつき出して、手とお尻の調子で踊っている。

腰の関節は横にもよく曲り、左の腰骨の上に子供をまたがらせ、左手で抱えている。従って、子供は母親の左の乳房ばかりを多く飲むから、大抵の女は、右側よりも左側の乳房が大きく垂れ下っている。

写真5:逞しいイノンゴの女性


母系家族的傾向があるらしく、女は結婚しても姓が変らず旧姓を名乗り、子供が父の姓を継ぐ。名前の方は、男女とも、ヨーロッパ的な、シモンとかマリーンとか聞き馴れた名前が中年以後の人に多いが、これは勿論ベルギーの影響であろう。姓は古来のものを使っており、イセカとか、ンペペとかわれわれには耳馴れない発音で、日本式に姓を先に名は後に呼ぶ。

生後間もなく、男の児は割礼を受け、女の児は耳朶に穴を開けられる。将来イヤリングの鈎を通すためで、これは貧富を問わず女児にはすべて行われるので、われわれにとっては、男児女児の鑑別法となる。大きな金色のイヤリングは、真黒な肌に映えて仲々美しい。

10歳を過ぎる頃になると、両頬に大豆位の大きさの点状の入墨をする。又、こめかみにも、短い縦線上の入墨をする。年寄りほど多く、かつ複雑なものをしており、男も胸、額などに見られるが、すべて、線又は点線で幾何学的模様をなし、絵や文字(この国は固有の文字をもたない)などは見られず、また背部、腕、足などにも決して施していないのが特徴である。

腹模様と髪型

さらに興味があるのは、女たちの腹部にある彫刻のような模様である。これは入墨と異り、お腹のHaut(注2) に直接に傷を付けるのである。そうすると治ったときに、Narbe(注3)となって周囲の皮膚から盛り上った模様が遣る。ケロイドのようにこの盛り上りが強い程、模様がはっきりとして上等とされる。この模様も幾何学的模様で、最も単純なものは、水平線が10本ばかり並んでいるだけであるから、黒い洗濯板におへそが付いていると考えれば良い。少し複雑なものでは、水平線が一行おきに点線になって、わさびのおろしがねの模様になる。更には、短かい斜線がその行間に並び、最も手のこんだものになると、縄文式土器の甕の模様を思わせる様な複雑なものもあった。子供以外の女は、すべてこの様なお腹をしているので、最初のうちは、腹部の触診は甚だ気味が悪かった。

イノンゴに着いた翌日であったであろうか、未だ診療を始めないのに、重症だから特別に診てくれと言われて、病院の重症個室へ連れて行かれた。薄暗い病室には大勢の親族がつめかけ、アンペラを敷いたベッドの上には、老婆が息苦しそうに熱い息をしている。胸の上には、バナナの葉のようなものが巻いてあり、それを取ると、何か吾々には判らない草が、高熱の体温に蒸れて、異様な臭気を発している。胸部の所見は明らかに肺炎である。そして、腹部に巻いていた布を取り去って、触診をしようとしたとき、初めてこの真っ黒い腹壁の模様が目に入った。

周囲の一家眷属は、息を殺して一挙手をも見逃がさじと視線を凝らしている。一瞬のためらいを秘して、赤十字の旗の下、東洋の君子国から遥々とやって来た彼の仁医は、その奇異の紋様の刻まれた、汗ばんだ黒い腹に手を触れた。

このとき、正に、自分は今、アフリカの地に来たのだ、という実感が、しみじみと手の掌から伝わって来たのである。

写真6:腹模様


馴れて来ると、その腹壁紋様を観察するのも一つの楽しみになって、宿舎に帰ってからのつれづれに、忘れぬうちにとメモしておいたのが図に示したものである。顔の入墨同様、近頃の若い娘は割合に単純な図柄、年寄り程、複雑になっている。これを施すには、一種の専門家の如き者がいるらしく、もちろん麻酔などはしない。15、6歳で行い、その代金は5コンゴフランということで、タバコが10本入り1箱7フランに比べると、誠に安いお礼である。

土人は強度の縮毛であるから、日本人がするように、髪の毛をとかしたり結ったりすることは出来ない。従って、女も平常は髪の手入れはあまりしないが、時には縮れた髪を念入りに飾ることがある。

写真7:アフロ・ヘア















どうするかというと、先ず、毛筋立を以て、頭毛の根本の部分を碁盤の目の如く分割する。そして、その一区画の毛を掴んで縮れた毛を引伸し、根本の方から先の方へと黒い糸で髪の毛の束をぐるぐると巻いて来る。すべての区画の毛を同様に巻くと、頭から繩のれんが垂れ下ったような具合になる。これは主に、年寄り髪形であるが、区画の大きさ、糸の巻き方、毛の長さ、或いは毛の編み方などによって、実にさまざまな形が出来る。頭の四方八方に、まつたけの生えたような形になったり、アンテナが突き出ていたり、西瓜の皮の模様になったりして、誠に芸術的なものがある。もちろん、他人にやって貰わねば自分では出来ないし、随分手間、ひまのかかるものであるが、時間に追われる生活ではないから、やれるのであろう。睫毛は黒色として長く、二重まぶたに反りまつげで美しいが、あまり見栄えがしないのは、肌も黒いので引立たないからであろう。ひとみの色は日本人と同じで黒く、混血児でなければ、灰色や青いひとみは見られない。

雨季

われわれがイノンゴに着いた当時は、丁度、乾季に当り、室内で30度位の温度であったが、空気が乾燥して湿度が低いので比較的凌ぎ易い気候であった。乾季の間は雨が降らないので、大気が次第に汚れ、夕方には湖の彼方、対岸の森の梢を朱色の盆になって落ちて行く夕日が肉眼で美しく眺められた。

9月下旬、雨季が近づいて来て、一と雨降ると大気は雨に洗われて澄み渡り、太陽は烈々として頭の真上から照りつけ、脳天を灼かんばかり。落日も森の木蔭にかくれるまでは、眩しくてとても直視出来ない程、最後まで輝いている。

雨季は9月のお彼岸の頃から始まる。初めは一週間に一度位の割合で降っていた雨が、次第々々に間隔をせばめ、11月1日から一週間にわたっては、連日のように大豪雨が来る。雷鳴と稲妻とが天地も裂けよと轟き光り、棕櫚の葉は皆、空に向って吹き上げられ、女の髪の毛の如く烈風になびく。未来永却降り止まぬのではないかと思われる程息もつかずに降り注ぐ。

雨の晴れ間の空は抜けるほど碧く、空気は塵一つなく澄み渡り、数キロ離れた対岸の森の樹の幹が一本一本見分けられる。見馴れぬ美しい熱帯の花も次ぎ次ぎと鮮やかに咲き出し、或る日突然に無数の白い蝶が群をなして落花の如く森を舞い始める。

別れのとき

このような平和境の中に、幸い事故もなく三ヶ月を迎え、動乱の情勢も小康を見せ、国外に難を逃れたベルギー人やその他のヨーロッパ人も、ぽつぽつ戻り始める気配となった頃、「11月中旬を以て、任務を終了」すべき旨の、日本赤十字社からの訓電に基き、われわれはイノンゴを去ることになった。県当局は、レオの中央政府に打電し、われわれ医療班の引留め工作を行った由であるが、返電が無いまま、出発の11月12日を迎えた。

前夜は名残りを惜しむ病院関係者を始め、県知事、郡長、駐留国連部隊長等多勢が盛大な送別会を催し、日赤社長には立派な象牙とワニの皮を、また、われわれ各人には精巧な象牙細工を記念に贈呈してくれた。当方も、メディカル・アシスタント、看護夫、ボーイたちには、心ばかりのお礼として白衣、シャツ、靴などを与え、県の役場には、毎晩ニュースを聞いていたソニーのポータブルラジオの一台を置いて来たのである。

陽は烈々と輝き、雨は滝の如く、ジャングルは大地を覆わんばかりに茂り、人は悲しんでは号哭し、喜んでは歓喜の歌と共に踊り、男女は自然の中に営んでいる。この愛すべきイノンゴは地上の楽園でもあろうか。懐かしい黒人たちに見送られ美しい湖岸の白浜の渚を見降して、われわれは再びジャングルの海の上をレオポルドビルに向って飛んだ。

あの湖畔の小さな町の人々のお蔭で、日本ではなかなか見られない病気を診せてもらった。鎌状赤血球貧血症、ロア・ロア・フィラリヤ症、二週間も続いた見事なPriapism (注4)、二本の指が通ずるほどの膣----膀胱痩など。そして、胎盤用子剥離、小児頭大の子宮筋腫剔出術、上腕骨複雑骨折観血的整復術など、各科の専門の先生方よお嗤い下さいますな、これらは何れも、外科のA先生ではなく、私自身が術者でやる羽目になってしまったのである。

レオポルドビルの街は、三ヶ月前に比べると、治安も回復し、大分活気を取り戻して、店や映画館も開かれ、アルベールの大通りには、家族連れの白人たちの姿も見られた。モブツ軍司令官も次第に軍隊を掌握し、閲兵式や黒人落下傘部隊のデモンストレーションも行われていた。

日本領事館、赤十字国際委員会、赤十字社連盟等に厚く感謝の意を表し、11月18日午後3時、われわれを乗せた国連機は、誠に想い出多いコンゴの空港を離れた。途方もなく広いサハラ砂漠の上を一日飛び続け、イタリヤのピサに着いた時には、吐く息は既に白く、ヨーロッパの晩秋の冷気が肌に泌みた。

◇  ◇  ◇

このあと、二週間ばかり、文明国と称するヨーロッパの名所旧蹟を駆け足で見物して、羽田空港に着いたとき、医局の先輩が、わざわざ税関の手前まで出迎えてくれ、親父が10月1日心筋梗塞で亡くなったことを知らせてくれた。秘するよりも顕はるるは無し、で、10月以後、誰からの便りにも父の事が一と言も認められなくなったので、多分、死んだのではないかと推測していたので、そのときは、やはりそうであったかと思った位であったが、今や、その親父の齢よりも十数年若くして、同じ病に倒れ、危い処を助かってみると、父母在すときは遠く遊ばず、という古聖の言葉が心に泌みるこの頃である。

※1 BG/buisness girlの略。今日でいうOL (office lady) 同義語
※2 Haut/皮膚(独語)
※3 Narbe/癩痕(独語)
※4 Priapism/持続勃起症

初出誌:『水戸医師会報』68号、1979年・69号、1980年